ヤマハの転機
「楽器製造」のイメージがどうしても先行するヤマハ。
しかし、そのヤマハが、国内でもトップクラスのバイクブランドであることを知らない人はいないでしょう。
今ではとても信じられないことですが、第二次世界大戦中、ヤマハ(その当時は「日本楽器製造」)は
軍用機のプロペラを作っていました。
この時代は、どこの工場も戦争で使うものの製造に追われていたことはご存知でしょう。
ヤマハも例外ではなく、楽器やバイクの製造以外のところで活動をしなければなりませんでした。
これ以前は楽器ブラントとして活躍していたヤマハですが、時代がそれを続けることを許さなかったのです。
しかし、昭和28年になってその必要もなくなり、国からの接収がやめになると、社長の川上源一は動き出します。
戦争が終わり、使うことがなくなった工場で、楽器製造と二輪車製造をしようと考えたのです。
ここから、ヤマハの歴史は大きく動き出すことになります。
ヤマハの転機となった二輪車は、別名「赤トンボ」と呼ばれたヤマハ125。
バイクブランドが数を増やしている中で、この赤トンボの登場は衝撃的だったと言います。
赤トンボは多くのバイク愛好家からの注目を集め、売り上げ台数も他の二輪車を押さえるほどの人気に。
まさに、昭和のバイクに名を残す一台となっています。
現在も、ヤマハはバイクブランドとしての人気を確立しており、
多くのバイク愛好家たちがこぞってヤマハのバイクを買い求めています。
ヤマハの挑戦
そんな人気でも初心を忘れることなく、新しい挑戦をし続けているヤマハ。
近年は、二輪車の需要が拡大するインドで4万円のバイクを売り出したことが話題となりました。
低所得者でも手軽に購入できるバイクを作りたい・・・そんな発想が実現されたものです。
インドをはじめとするアジアでは、まだまだ四輪ではなく二輪自動車が人気と言う場所がありますので、
その様なところで情を伸ばしたいと考えているのでしょう。
2012年には、人気のスクーター「アクシストリート」の新色も発表するヤマハ。
日本国内は空前の不景気にあえいでいますが、そこで守りに入るのではなく、
攻めの姿勢を保つことも、ヤマハの人気に華を添えている様に思います。
ヤマハは、その歴史だけ見てもユニークな企業ですので、バイクファン以外にも
大いに注目されていると言う良さも。今後も、国内大手のモーターサイクル企業として、
独自の発展を続けていくのではないでしょうか。
参考サイト
バイクの歴史