ホンダという会社
世界のバイク業界を牽引する存在として君臨するのが、『ホンダ』の存在です。
四輪自動車のトップにトヨタが君臨する様に、二輪自動車のトップとして
多くのブランドに影響を与え続けているのが、『ホンダ』のバイクなのです。
ホンダといえば、やはり挙げなければならないのが『ヤマハ』の存在ですが、
ヤアハとホンダ創業以来互いに切磋琢磨している存在で、業界内でも実質『ライバル』として扱われています。
本田の変遷について少々お話していきましょう。
1946年、「本田技術研究所」として誕生したホンダ。
そのホンダの創始者となったのが、本田宗一郎の存在です。
この時は工業製品の開発などを行う企業で、1947年には二輪車用のエンジンを完成させています。
1948年には「本田技研工業株式会社」と名前を変更。
この後、技術力を持って会社を引っ張る本田宗一郎と、
企業経営の柱として会社を動かす藤沢武夫がトップに立ち、
ホンダを作り上げていくことになります。
二人による二人三脚で成長した企業である本田ですが、最初に起業したのが本田氏であり、
後から藤沢氏が加わる形となった為、企業の名前には「ホンダ」がつけられています。
技術力を発揮してホンダはどんどん大きくなり、やがて日本で初となるナビ付自動車を開発。
ナビ付自動車は、今でこそ当たり前のものになっていますが、当時としては画期的なアイディアとなったものです。
また、そのナビ付自動車を実現したのが、ホンダであるということ驚きます。
その後も、高い技術力でホンダは業界の中でより高い存在感を発揮していきます。
創始者:本田宗一郎について
技術者としてホンダを牽引してきたかに思われる本田氏ですが、現場では彼のやり方に賛否あった様です。
本田氏のエピソードとして、「空冷エンジンにこだわりすぎた」ということが挙げられているとか。
現場では「もう空冷エンジンでは時代についていけない、これからのことを考えるなら、
水冷エンジンに切り替えるべきだ」という意見が主流でしたが、本田氏がそれを聞き入れず、
ホンダは他のメーカーから遅れを取ることになります。
この時、現場では何度も実験を行い、「空冷では限界がある」ということをつきとめていました。
こうした経緯から、本田氏に関する賛否は分かれる様です。
しかし、この様に技術者として賛否があった反面、
会社と社員を守る為なら官僚とやりあうことも厭わないこと、技術に関しては厳しく
現場の人間をたくさん泣かせてきましたが、言われた当人よりも、言った本田氏が泣くこともあったなど、
人情に厚い人であったとも言われています。
事実、本田氏を父親の様に慕う社員も少なくありませんでした。